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新撰組局長 近藤勇 の世直し
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 このブログの設置者に、パスワードを忘れたから教え

ろというメールを出した人物がいるようだが、残念なこ

とだろうが、設置者から拙者の別のアドレスにメールが

来ている。


 何のためにそのようなことをしたのか判らないが、明

らかに違法行為だ。これは、謝罪と反省だけで済まされ

る問題ではない。近日中に弁護士と協議して、法的措置

を考えている。おそらく、軽い気持ちでしたことだろう

が、現代の情報社会では絶対にしてはならないことの一

つだということをしっかりと認識して欲しい。


 お主の出したメールのIPアドレスから、お主が誰で

あるかを特定することが出きるということを知らなかっ

たのだろう。このブログの設置者にも、拙者の考えを返

信しておいた。それにしても、他人のブログのパスワー

ドを忘れたから教えろというメールを出すとは、よほど

インターネットのシステムに疎い人物なのだろう。


 これは民事訴訟ではない。刑事裁判だ。そのことも十

分承知しておいて欲しい。最後に、一つだけ教えておく。

こうしたことをするのがいるから、登録アドレスとは別

のアドレスも登録してあるのだ。いい勉強になっただろ

うが、少し授業料が高かったな。それにしても、あまり

にお粗末過ぎはしないか?

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 今日は昼食を共にしながら、天狗と風来坊さんと三人

で話しをすることが出来た。勿論、話しのほとんどは、

日本聖公会京都教区のことに関してだったのだが、あの

差し戻し審の審判があまりにも不埒なものだっただけに、

三人ともどういっていいのか判らなかった。そして、日

本聖公会の教会の看板などには、「英国国教会の伝統」

という言葉が出てきているのだが、彼らはその意味を知っ

ているのだろうかという疑問が出てきた。「知っている

つもりになっているだけだろうな」と天狗が言っていた。

多くの司祭の「書斎」には、基本的な神学書がなかった

り、本棚に注解書は並べてあっても、それを読んでいる

形跡はない。


 風来坊さんはそれを聞いて唖然としていた。日本聖公

会はどうなっているんだと嘆いていた。そして、日本聖

公会の教会で、幼稚園を併設しているところでは、幼稚

園からの園長給が司祭の収入の大部分になっているらし

いが、彼らが一日の大半を幼稚園の仕事に費やされてい

ることも理解できる。だから、こうした問題が起こって

も、まともな判断が出来ないのだろう。まして、審判廷

という教会の法憲法規に則った判断など出来るはずもな

い。そして、神学的発想で事に当たることが出来るはず

もない。それは、「時効」という審判にはっきりと顕れ

ている。


 日本聖公会京都教区は自ら神学的思考を放棄したとし

か思えない。そして、主教の権威というのが、教会とし

ての日本聖公会の中での権威であり、その権威には明ら

かに制約があるにもかかわらず、主教という職位を独裁

者的なものと理解してしまっているように見える。それ

は、いままでの経緯の中でも出てきた問題だった。「主

教様がお決めになる」という言葉だ。日本聖公会であろ

うが、ローマ・カトリック教会であろうが、他のプロテ

スタント教会であろうが、聖書の基準を越えて判断する

ことは出来ない。しかし、日本聖公会京都教区を外から

見ていると、主教は聖書さえも越えられると考えている

ように見える。日本聖公会京都教区は、教会は誰のため

のものであるかということを理解しているのだろうか。


 少し前に、東京のローマ・カトリック教会の聖堂を借

りて「宣教150年記念礼拝」がおこなわれ、それを米

国聖公会の同性愛賛成の主教が司式をしたそうで、それ

に対してローマ・カトリック教会の信徒から抗議が寄せ

られているようだが、日本聖公会はこれに対してどれだ

け誠実に答えられるのだろう。このことを前もってロー

マ・カトリック教会に伝えていたのだろうか。転送され

てきたメールでは、事前にメールで抗議が寄せられてい

たそうだが、日本聖公会の諸教会はどう考えているのだ

ろう。あまりにもローマ・カトリック教会に失礼なこと

をしたとしか、拙者には思えない。
 


 


 日本聖公会の法憲法規は飾り物のようだ。ある教区で

は、選挙なしで教会委員や教区代議員が決められていた

そうだが、知り合いに電話で確かめたら、当選ラインに

2名が並んだ時に、片方の人が司祭から「引き下がって

下さい」と蔭で言われたそうだ。決選投票をするのが当

然なのだが、その司祭はそれを知らなかったのかもしれ

ない。もしかすると日本聖公会では、それが「英国国教

会の伝統」なのだろうか。


 審判言い渡しの期日を、審判申立人に一方的に通告し

てきたとのメールが転送されてきたが、これも「英国国

教会の伝統」なのだろう。近代史民社会における民主主

義の基本的な原則など、どうでも構わないのだろうが、

女性の人権やオキナワ問題ではずいぶん声を上げていた

聖職者達がいたように思えるのだが、彼らは何故沈黙し

ているのだろう。女児に対する性的虐待行為は、人権に

関わる問題ではないのだろうか。社会的・政治的問題を

立身出世のための道具として使っていたのだろうか。だ

としたら、それを信じていた人々への裏切りであるし、

「右翼」というレッテルを貼られ、苦しんだ人々に対し

て、どのように弁解するのだろう。


 20世紀末の頃から、所謂「サヨク」が増えた。何で

もかんでも反対する人たちだ。そして、そうしたサヨク

を上手に「連帯」させた人々がいた。しかし、そうした

人々は決して表には出てこない。そして、いつの間にか

社会的・政治的問題には口を噤んでしまった。その理由

が何であるかは誰にも判らないだろうが、70年安保闘

争を越えてきた拙者達の世代には、手に取るようによく

判る。同じように生きた連中がいたからだ。同じような

ことは、明治維新の時にもあった。長岡や会津は最後ま

で裏切らなかった。しかし、奥羽列藩同盟を結んでいた

藩の中には、籠城している同盟藩を見捨てた連中がいた

ことも事実だ。


 日本聖公会にも何故か知らんが、そうした人物がいる

ということが聞こえてきている。いざとなったら、自分

の身を守ることしか考えない連中だ。そして、肝心なと

ころで姿を消す。確かに、1970年前後にも同じよう

な輩は大勢いたが、それでも信念を貫いている人たちが

いま何をしているかを聞くと、素晴らしい生き方をして

いるとしか言いようがない。地位や名誉と経済的豊かさ

を求めた連中とはまったく異なっている。日本聖公会の

聖職者達は、一体どういう生き方をしようとしているの

か。主教になって、ふんぞり返ることを願っているのか。

それとも、退職後の悠々自適の生活を求めているのか。

日本聖公会から聞こえてくることは、ごく一部を除いて、

あまりにも悲惨な生き方ばかりだ。

 

 何回か、新撰組の三人と風来坊氏とTERAさん、そして

鞍馬天狗とも電話で話をしたが、全員が、日本聖公会京

都教区に対して呆れ返っていることが判った。彼らは、

中学生でも理解しているようなことがまったく判ってい

ないのだろう。「教会の権威」という言葉が表現してい

ることは、その教会もしくは教団の中でしか通用しない

し、教会が国家の法律に違反したことをすれば、当然の

こととして、処罰を受けなければならないし、その不当

行為については弁済しなければならない。


 しかし、日本聖公会京都教区を見ていると、日本聖公

会は世界の聖公会に組み入れられていて、その原初は英

国国教会なのだから、日本の法律は日本聖公会京都教区

に介入出来ないとでも思っているのだろうか。もしそう

だとしたら、そこには重大な問題がある。日本聖公会の

教区なり教会はそれぞれ日本の法律によって定められた

宗教法人になっており、宗教法人としての恩恵を受けて

いるのだが、その恩恵を拒否しなければならないだろう。

教会の土地や建物に、固定資産税をかけられるべきだ。

でなければ、他の宗教法人に対して日本聖公会は示しが

付かなくなりはしないだろうか。


 「日本聖公会は世界の聖公会に加盟している、伝統あ

る教会なのだ」と言ってみたところで、日本の法律はそ

の「伝統」を認めていない。京都教区ならば判るだろう

が、飛鳥や奈良や京都にある古いお寺も、新しいお寺も

みな、宗教法人法の中では同等の権利を得、義務を課せ

られている。つまり、どのような歴史を持った宗教法人

であっても、学校法人の会計からその宗教法人の経費を

捻出することは、双方の法人にとってまったく違法なこ

とであるとしか言いようがない。何人もの方々から送ら

れているメールが拙者の所へも転送されてきているが、

あのメールに書かれていることが事実であるとすれば、

日本聖公会京都教区の執行部にいる人々は、宗教法人法

以前に、教会にとって法とは何かということをしっかり

と学習する必要があるだろう。


 宗教法人になれば、土地や建物の固定資産税が免税に

なり、献金に課税されることはないし、学校法人になれ

ば兼を通して国から補助金を得ることが出来るというこ

とだけで、それぞれが法人格を取得したのだとすれば、

あまりにもそれは悍しいことだ。多額の財産を持ってい

る人が、宗教法人を設立して脱税しているのに似ている

ように見える。挙げ句の果てに、女児に対する性的虐待

をしていた聖職者に、補助金によって多額の退職金を支

払っていたという事実を誰がどのように責任をとったの

だろう。日本聖公会では、聖職者はどんなことをしても、

それは正義になると考えているのだろうか。しかし、日

本の法体系では、キリスト教会もまた治外法権ではない。
 


 日本聖公会という教派は、一体何を考えているのだろ

う。差し戻された審判廷での審理が遅々として進んでい

ない。それもそうだろう、何しろ、性的虐待の加害司祭

を擁護していた主教や司祭が審判員では、まともな審判

が出来るはずもない。しかし、日本聖公会の管区は何故

このことを問題にしないのだろう。それが不思議でなら

ないのだが、こうした不思議なことは日本聖公会の中で

は日常茶飯事だということを耳にしたことがある。


 日本聖公会では、実質的に司祭が教会会計を扱ってい

ることがあるという。一般的なキリスト教会では考えら

れないことだ。牧会ということを考えたら、牧師はそれ

ぞれの個人の献金額を知らない方がいい、と言うよりも

知ってはならないのではないだろうか。すべての信徒や

求道者を対等な目で見なければならないからなのだが、

日本聖公会ではそうした認識が薄いのだろうか。そして、

ある教会では、深い関係のある学校法人の会計と教会会

計が「一体化していた」そうだが、当然法的な問題がそ

こにあるのだが、そのことに関する認識はなかったとし

か思えない。もし、そうした認識があったにもかかわら

ず、教会会計と学校法人会計を一体化していたとすれば、

ある意味では、過失ではなく故意にそれを行っていたこ

とになる。


 そして、高地主教は、性的虐待を事実と判断し、加害

司祭を陪算停止にしているにもかかわらず、退職司祭の

一人は「時効」を主張しているという。しかし、日本聖

公会の『法憲法規』によれば、時効の起算日はその加害

行為をしなくなった時であろうと考えられる。しかし、

加害司祭は、いままでに、民事裁判で決着が付いている

事案に関しては、いまだに「事実無根」を主張している

のだから、加害行為はまだ続いていると考えるべきなの

ではないだろうか。おまけに、「謝罪書簡」なるものを

送付していたが、あの謝罪書簡には、それこそまったく

事実無根だと言われている出来事が記されていた。


 こうした、性的虐待京都教区の、あの性的虐待事案の

解決に関する一連の動きを見ていると、日本聖公会京都

教区がこれまでしてきたことの何から何までが、加害司

祭を擁護することにしかなっておらず、被害者とそのご

家族に対する二次的・三次的加害行為が続けられている

ということは、誰の目にも明らかなことのように思える。

実に悲惨で、陰惨なことだ。だから、法曹界の中に、児

童に対する性的虐待行為の時効の起算日を、PTSDが

発症した日にすべきだという考え方が出てきているのだ

ろうが、日本聖公会京都教区の主教や常置委員がそれを

知っているかどうか。なにしろ、主教が判断したことは

神律になるかのように考えているようだから、当然のこ

とであるのかもしれないが、それでは明治憲法下の天皇

制が保持していた重大な過ちが、日本聖公会京都教区の

中で繰り返されていることにしかならない。

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