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新撰組局長 近藤勇 の世直し
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 今日は昼食を共にしながら、天狗と風来坊さんと三人

で話しをすることが出来た。勿論、話しのほとんどは、

日本聖公会京都教区のことに関してだったのだが、あの

差し戻し審の審判があまりにも不埒なものだっただけに、

三人ともどういっていいのか判らなかった。そして、日

本聖公会の教会の看板などには、「英国国教会の伝統」

という言葉が出てきているのだが、彼らはその意味を知っ

ているのだろうかという疑問が出てきた。「知っている

つもりになっているだけだろうな」と天狗が言っていた。

多くの司祭の「書斎」には、基本的な神学書がなかった

り、本棚に注解書は並べてあっても、それを読んでいる

形跡はない。


 風来坊さんはそれを聞いて唖然としていた。日本聖公

会はどうなっているんだと嘆いていた。そして、日本聖

公会の教会で、幼稚園を併設しているところでは、幼稚

園からの園長給が司祭の収入の大部分になっているらし

いが、彼らが一日の大半を幼稚園の仕事に費やされてい

ることも理解できる。だから、こうした問題が起こって

も、まともな判断が出来ないのだろう。まして、審判廷

という教会の法憲法規に則った判断など出来るはずもな

い。そして、神学的発想で事に当たることが出来るはず

もない。それは、「時効」という審判にはっきりと顕れ

ている。


 日本聖公会京都教区は自ら神学的思考を放棄したとし

か思えない。そして、主教の権威というのが、教会とし

ての日本聖公会の中での権威であり、その権威には明ら

かに制約があるにもかかわらず、主教という職位を独裁

者的なものと理解してしまっているように見える。それ

は、いままでの経緯の中でも出てきた問題だった。「主

教様がお決めになる」という言葉だ。日本聖公会であろ

うが、ローマ・カトリック教会であろうが、他のプロテ

スタント教会であろうが、聖書の基準を越えて判断する

ことは出来ない。しかし、日本聖公会京都教区を外から

見ていると、主教は聖書さえも越えられると考えている

ように見える。日本聖公会京都教区は、教会は誰のため

のものであるかということを理解しているのだろうか。


 少し前に、東京のローマ・カトリック教会の聖堂を借

りて「宣教150年記念礼拝」がおこなわれ、それを米

国聖公会の同性愛賛成の主教が司式をしたそうで、それ

に対してローマ・カトリック教会の信徒から抗議が寄せ

られているようだが、日本聖公会はこれに対してどれだ

け誠実に答えられるのだろう。このことを前もってロー

マ・カトリック教会に伝えていたのだろうか。転送され

てきたメールでは、事前にメールで抗議が寄せられてい

たそうだが、日本聖公会の諸教会はどう考えているのだ

ろう。あまりにもローマ・カトリック教会に失礼なこと

をしたとしか、拙者には思えない。
 


 

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