日本聖公会には「自戒」という言葉はないのか。
原田が市中引き回しの上、獄門さらし首になることは当然ことだ。
被害者が六人もいる。常識では考えられない数だ。原田がどんな牧師
だったかということと、原田の罪状はまったく関係がない。どんな人
間が犯罪を犯そうと、犯罪は御法度だ。
それを、日本聖公会京都教区は勘違いしている。いや、勘違いでは
なく、意図的に擁護してきた。あの加害行為が明らかになり、養生所
で被害者の父上に土下座して謝っているのを、何人もが目撃している
にも関わらず、一旦提出した退職願を原田に返してしまった。ここか
ら京都教区の原田擁護が続いている。主教選挙で、主教になりかけた
そうだな。ただ、そもそも使徒性の継承者である主教を選挙で選ぶと
いうこと自体、拙者には信じられない。何故、主教会による試験がな
いのか。司祭になるときには試験があって、何故主教になるときには
試験がないのか。
主教は司祭とはまったく意味が異なるだろう。主教は、司祭になる
ために必要な知識以上の知識を持っていなければならないはずだ。聖
公会はどの国でも同じことをしているのか。「洗礼はサクラメントで
も、堅信礼はサクラメントではない。にもかかわらず、主教だけしか
それを執行できないのは何故か。」「サクラメントでない堅信礼を受
けなければサクラメントである聖餐を受けられないのは何故か。」
日本聖公会は、こうした教会にとっては大黒柱的な教理に関するこ
とをほとんど考えていないようだな。京都教区の問題が真実の意味で
解決したら、主教をはじめ、司祭や執事ももう一度勉強し直した方が
いい。聖書神学や組織神学だけでなく、教会法を含んだ教会史や典礼
史を学んだ方がいい。聖公会神学院もウィリアムス神学館も3年だそ
うだな。3年では、まともな神学教育を受けることは難しい。ことに
説教学などは、3年間履修するにしても、相当な訓練を受けなければ
説教が出来るようにはならない。勿論、聖書神学や組織神学を学びな
がらのことだ。とりあえず、京都教区は徹底的に悔い改めよ。