最近気になりはじめたことがある。それは、3月3日
に開かれる「審判廷は誰のために開かれるのか」という
ことを、日本聖公会の管区小審判廷は理解しているだろ
うかという疑問だ。ここまで多くの人々に問題視されて
きた、性的虐待の被害者に対する仕打ちを管区小審判廷
の審判員は理解しているかということでもある。先ほど
書かれた『キリスト教カルトを斬る』というブロガーに
よれば、管区小審判廷の審判員はいまだにあの被害者が
全面勝訴を勝ち取った高等裁判所の判決を閲覧していな
いようだ。地方裁判所の裁判記録と高等裁判所の裁判記
録は、当該地方裁判所の支部で閲覧できるようになって
いるにもかかわらず、小審判廷の審判員はなぜ閲覧して
いないのか。(今日、閲覧していたり、近いうちに閲覧
しに行く予定を立てているかもしれないが)
「教会は国家権力に組みしない」として、閲覧を拒否
しているのだろうか。確かにそれは理解できるが、しか
し、被害者の被害体験をはっきりと提示しているのは、
地方裁判所に出された訴状に記されているのではないの
だろうか。それとも、管区小審判廷に被害者を出頭させ
て、同じことをもう一度証言させようとでもしているの
だろうか。拙者の知っている限りでは、あの訴状に記さ
れていることを繰り返し証言させることは、被害者がP
TSDに罹患している以上、絶対にすべきことではない。
審判員の中に精神科医がいたとしても、それをすべきで
はないことは誰にでも理解できることではないのか。そ
して、被害者の家族が求めている、加害司祭を復職した
経緯を明らかにする「常置委員会議事録」をいまだに隠
し続け、これからも隠し続けるのであれば、日本聖公会
京都教区は恐ろしい集団でしかなくなる。
おまけに、審判廷を非公開にするとのことだが、理由
がはっきりしていないとのことだ。ことに、被害者の氏
名・年齢・職業あるいは住所は明らかになっていないの
だから、すべて仮名で行われればいい。そして、京都教
区主教はすべての被害者の氏名・年齢を知っているのだ
から、仮名にすることはそれほど難しいことではなさそ
うに思える。何しろ、被害者の氏名をすべて知っている
のは、主教と一部の司祭だけであることは、被害者の氏
名などが公開されていないのだから当然のことであろう。
だとしたら、審判廷において実名が発言される可能性は
皆無に等しいのだから、非公開にする理由はないはずで
ある。それとも、被害者もしくはその家族から管区小審
判廷を非公開にして欲しいという要望書が提出されてい
るのだろうか。
しかし、もしそうだとしても、被害者の氏名・年齢・
職業・住所は、お一人を除いて公開されていないし、そ
のお一人の方の氏名等は、既に裁判所において公開され
てしまっている。それを覚悟で、あの被害者は慰謝料請
求裁判を提訴したと聞いている。あとは、被申立人が誤っ
て被害者の氏名を口にしなければ、管区小審判廷で被害
者の氏名が漏れることはあり得ない。それとも、管区小
審判廷は、加害者のプライバシーを保護するために管区
小審判廷を非公開にしようとしているのだろうか。もし
そうだとしたら、管区小審判廷は明らかに日本聖公会法
憲法規を無視しているとしか言いようがない。日本聖公
会法憲法規で審判廷を非公開にすることが出来るのは、
「審判廷の審判員が全員一致で、懲戒を申し立てられた
行為の被害者を保護するために必要であると判断したと
き」だけである。(法規第209条)日本聖公会の管区
小審判廷は何を審判しようとしているのか判っているは
ずである。
帰ってきたら、沖田から電話があったとの報告を
受けた。早速沖田に電話したが、その内容は信じが
たいものだった。「3月3日の審判廷は非公開にさ
れる」という一枚の葉書が申立人に届いた」という
内容だった。審判員全員の名前が書かれているわけ
でもなければ、非公開にする理由が記されているわ
けでもないという。これでは、管区の審判廷の審判
員が、法規の規定を知らないのと同じことだろう。
公開が原則で、それを非公開にすることの出来る理
由はたった一つしかない。それは法規第209条に
ある「懲戒を申し立てられた行為の被害者を保護す
るために必要であると判断したとき」だけだ。
3月3日の審判廷には、被害者は召集されないは
ずだ。また、今までに被害者の住所も名前も職業な
どもまったく公開されていない。あえて公開されて
いると言えるとすれば、慰謝料請求裁判を起こした
方だけなのだが、日本聖公会京都教区の文書でも、
「糾す会」の文書でも、被害者の名前は一切明らか
にされてこなかった。だから、3月3日に開かれる
管区の小審判廷で被害者の名前や住所が明らかにさ
れることはないだろう。被申立人は加害者とそれを
庇護した司祭と加害者の弁護人(日本聖公会教会員)
の3人だけだと承知している。
非公開にする理由が記されていない葉書には、非
公開にするという文言だけがあったそうだが、理由
は二つに一つしかないかもしれない。一つは、審判
廷を開き、双方の主張を聞いた上で、上記3名を何
らかの正式な懲戒に処するという審判を下すことだ。
この審判を下すことからジャーナリズムを排除しな
ければならないことは、誰でも考えることだ。そし
て、常識的に考えたら、これが一番高いのだが、今
までの京都教区や管区の対応を見ていると、「公訴
時効が完成している」という判断を下すことだ。も
しそうなれば、傍聴者は黙っていないだろう。それ
を押さえるには、はじめから非公開にすればいい。
ここまでは予測しているが、日本聖公会とは拙者は
それほど付き合いはないから、このどちらの可能性
が高いかはまったく判らない。日本聖公会の審判廷
は二審制をとっているから、この管区小法廷の審判
が最終審判になる。日本聖公会法憲法規、及び審判
廷規則には再審請求に関する規定はない。
そして、管区が「時効が完成している」と判断し
たのであるから、女児に対する、あの性的虐待事案
に関しては、すべての聖職と信徒は声を上げること
が出来なくなる。そして、この問題に関して、聖職
と信徒は沈黙させられる。主教会は法憲法規を超え
られると考えている日本聖公会では、管区小審判廷
の審判を覆すことが出来るのは、主教会しかない。
そうした意味からも、この二つ道のうちの一つだろ
うと拙者は考えている。「初めに結論ありき」の世
界だろう。そして、どのような審判が為されたかに
関しては、主教からの箝口令が出されるはずだ。何
しろ、日本聖公会管区や京都教区は、ジャーナリズ
ムがこの審判廷を記事にしたり、テレビに放映され
ることが一番恐ろしいだろうと思う。
日本聖公会の管区審判廷に対する上申が行われて
しばらく経つが、いっこうに開廷される気配がない
ようだ。「事前調査」なるものを綿密にしているの
だろうか。しかし、日本聖公会にはそれ以前にして
おく必要があることがあるのではないのか。でない
と、管区審判廷が開廷され、審判が申し渡されたと
しても、その審判に実行力が伴われるかどうかが判
らなくなる。
ある意味では、審判廷を規定している法規に関し
て、これが一番大切なものであろうと考えられるこ
とは、「主教は教会法を超えられるか」という事柄
だ。たとえば、管区審判廷が審判を下したとしても、
それを日本聖公会の主教会が執行停止を命じたり、
あるいは審判そのものの無効を宣言出来るかという
ことだ。既に、日本聖公会京都教区では、法規の規
定を逸脱して、長年にわたり、女児に対する性的虐
待を行っていたH司祭に、日本聖公会の法規による
審判規定を適用せずに、「主教判断」でH司祭を陪
餐停止にしてしまった。法規では、審判廷によらな
ければ、何人も懲戒されないと規定されているにも
かかわらずである。
そして、この京都教区主教の判断を管区はどう考
えているのかということは、日本聖公会が日本聖公
会というキリスト教の一教団であるということから
すれば、日本聖公会の教会制度がどのようなもので
あるのかということに深く関わってくるだろう。日
本聖公会の中で、その日本聖公会の法憲によって聖
職試験が行われ、その試験に合格した人物を執事に
した後、司祭に按手しているのであるが、その司祭
が女児に対する性的虐待をしていたのである。この
性的虐待に関しては、日本聖公会京都教区は既に、
主教文書や常置委員会特別報告で被害者の氏名など
は秘匿されているものの、それが事実であることを
詳細に述べていた。
日本聖公会の「審判廷」という教会法廷はいま、
このことを大きく問われている。法治主義というの
は、近代市民社会にあってはごく当然のことである。
その当然のことを無視して、中世封建制度における
王が絶大な権力を有していたのと同じように、主教
は教会法を超えられると判断するのか。聖書の基準
からすれば、主教も人間でしかない。神の場所に立っ
ているわけでもないし、立つことは出来ない。とす
れば、管区審判廷への上申に対して、日本聖公会の
管区がこれをどのように判断するかは極めて重要な
ことであろうと思われる。同時に、日本聖公会京都
教区があの性的虐待事案に関して、これまでに犯し
てきた大きな過ちを認め、教会法である日本聖公会
法規によって審判が為されなければ、日本聖公会は
最早、教会信仰と教会の歴史を無視していることを
自ら証言してしまうことになる。
日本聖公会は何故、しっかりとした判断が出来な
いのか、不思議で仕方がない。児童に対する性的虐
待行為は極めて重大な犯罪であることは、世界的に
認められていることであり、アメリカのローマ・カ
トリック教会では、一つの教区が破産するほどの慰
謝料を支払い、加害者だけでなく、責任者も退職さ
せている。にもかかわらず、日本聖公会京都教区は
幼稚園の園長に対する退職金として、請求されてい
た慰謝料や裁判費用と同じくらいの額を加害司祭に
支給してしまっている。
おまけに、この加害司祭に対する審判を申立が行
われたにもかかわらず、真におかしな理由でこれを
却下してしまった。被害者が特定されていないとい
うことが唯一の理由だそうだが、京都教区のK主教
はすべてを知っているし、被害者との面識もあるの
ではないのか。だとしたら、「被害者が特定されて
いない」ということは却下の理由にはならないはず
だ。主教としての秘匿義務を守っているということ
はそういうことだろう。審判廷を公開しても、被害
者の氏名や住所を秘匿することが出来るはずだ。そ
れが教会の聖職者のつとめなのではないのか。
日本聖公会は法治国家ということや近代市民社会
ということを理解していないのだろう。管区の審判
廷が同じように却下したら、加害司祭は「陪餐停止」
を解除されるのではないのか。もしそんなことをし
たら、他の教派の多くの聖職者達は、日本聖公会の
対して大きな不信感を持つことだろう。児童に対す
る性的虐待行為をした司祭を、教会法で裁けないの
だから当然のことかもしれない。まして復職などと
いうことが行われれば、児童に対する性的虐待行為
をどう考えているのかと、日本だけでなく世界から
問いかけられるだろう。
日本聖公会の管区がすべきことは、一つしかない。
それは、日本聖公会の『法憲法規』に従って、京都
教区で起こった事案をすべて、その責任者も含めて
管区の審判廷で裁くことだけだろう。でなければ、
あらゆる場面で『法憲法規』の重みが失われていき、
最後は『法憲法規』が完全に宙に浮いてしまう。そ
して、いままで築き上げられてきたものが、音を立
てて崩落していくだろう。それでも、日本聖公会が
加害司祭やそれを擁護した人々を裁くことなく、自
らの権威を主張し、教会であり続けようとすれば、
日本聖公会はキリスト教の仮面をかぶったカルト集
団でしかなくなる。