日本聖公会の管区審判廷に対する上申が行われて
しばらく経つが、いっこうに開廷される気配がない
ようだ。「事前調査」なるものを綿密にしているの
だろうか。しかし、日本聖公会にはそれ以前にして
おく必要があることがあるのではないのか。でない
と、管区審判廷が開廷され、審判が申し渡されたと
しても、その審判に実行力が伴われるかどうかが判
らなくなる。
ある意味では、審判廷を規定している法規に関し
て、これが一番大切なものであろうと考えられるこ
とは、「主教は教会法を超えられるか」という事柄
だ。たとえば、管区審判廷が審判を下したとしても、
それを日本聖公会の主教会が執行停止を命じたり、
あるいは審判そのものの無効を宣言出来るかという
ことだ。既に、日本聖公会京都教区では、法規の規
定を逸脱して、長年にわたり、女児に対する性的虐
待を行っていたH司祭に、日本聖公会の法規による
審判規定を適用せずに、「主教判断」でH司祭を陪
餐停止にしてしまった。法規では、審判廷によらな
ければ、何人も懲戒されないと規定されているにも
かかわらずである。
そして、この京都教区主教の判断を管区はどう考
えているのかということは、日本聖公会が日本聖公
会というキリスト教の一教団であるということから
すれば、日本聖公会の教会制度がどのようなもので
あるのかということに深く関わってくるだろう。日
本聖公会の中で、その日本聖公会の法憲によって聖
職試験が行われ、その試験に合格した人物を執事に
した後、司祭に按手しているのであるが、その司祭
が女児に対する性的虐待をしていたのである。この
性的虐待に関しては、日本聖公会京都教区は既に、
主教文書や常置委員会特別報告で被害者の氏名など
は秘匿されているものの、それが事実であることを
詳細に述べていた。
日本聖公会の「審判廷」という教会法廷はいま、
このことを大きく問われている。法治主義というの
は、近代市民社会にあってはごく当然のことである。
その当然のことを無視して、中世封建制度における
王が絶大な権力を有していたのと同じように、主教
は教会法を超えられると判断するのか。聖書の基準
からすれば、主教も人間でしかない。神の場所に立っ
ているわけでもないし、立つことは出来ない。とす
れば、管区審判廷への上申に対して、日本聖公会の
管区がこれをどのように判断するかは極めて重要な
ことであろうと思われる。同時に、日本聖公会京都
教区があの性的虐待事案に関して、これまでに犯し
てきた大きな過ちを認め、教会法である日本聖公会
法規によって審判が為されなければ、日本聖公会は
最早、教会信仰と教会の歴史を無視していることを
自ら証言してしまうことになる。