日本聖公会京都教区は何故原田を斬らなかったのか。いや
もしかしたら斬れなかったのかもしれない。原田は京都教区
だけでなく、管区にも顔が利いていたという。常置委員長と
いえば、教区の代貸みたいな者だろう。今風にいえばNO2
ということになる。他教区の話もいろいろと耳に入ってきて
いたはずだ。原田を斬ったら大変なことになると、高地主教
をはじめ常置委員は直感的に悟ったのではないのか。
それで、日本中の教区が一斉に沈黙したことも理解できる。
はじめの頃はかなり強気の発言をしていた司祭達も、主教会
の箝口令が発せられれば、そのほとんどは黙るだろう。それ
でも黙りそうにない司祭には、何の連絡もしなければいい。
そして、京都教区が捏造した文書をまことしやかに受け取れ
ば、少なくとも自分たちに火の粉はかかってこない。よくあ
る話だ。かつての企業が自己防衛した時に似ている。
しかし、最近の企業はこうした仕方で自己防衛をしなくなっ
た。証拠隠滅や捏造を行えば、必ずそれが露見する。露見し
たら、後が大変なことになる。それを考えて、企業の幹部は
問題の大きさに応じて処分される。代表取締役の解任さえあ
り得る。京都教区は道を誤ったな。どこででも自分たちの権
威が通じると思っていたのか、あの去年の1月29日文書の
ようなものを公表してしまった。「Eメールなどの文書によっ
て多数の方に情報を流している人がありますが、その中には
事実ではないことも多く含まれており」と書いているが、誰
のEメールを指しているのか。「糾す会」(元「考える会」)
が出していたメールのどこに事実でないことが書かれている
のか。それを示さなければ、これは「糾す会」に対する正に
誹謗中傷でしかない。
そして、最終行の「なお、この文書は被害者の関係者の方
の了解のもとに出しておりますことを申し添えます。」は明
らかに捏造であることは、いくつかのブログが書いてきたこ
とだ。現職司祭の性犯罪を隠蔽するために、被害者とその家
族に対しても虚言を労するとは、最早、弁解無用だ。被害者
に対する二次的・三次的加害行為を繰り返したのと同じこと
だ。梟首になる前に、自ら辞職された方がよろしいのではな
いのか。「俺は主教だ!」と叫んでも、他教派の教会も一般
社会も、何も感じないぞ。「イギリス国教会の流れの中にあ
る教会だ」と唱えても、法律はまったくそれによって影響を
受けることはない。
『キリスト新聞』なるものに、「軍事基地がある限り、市
民の日常生活は直接間接的に脅かされ」と日本聖公会の聖職
者を含んだ日本聖公会の内部団体が表明していると書かれて
いる。これは沖縄の少女暴行事件に関して、同新聞の3月8
日号に記されているのだが、日本聖公会には主体性というも
のがあるのか。
地方出身の隊士が話してくれたが、日本にある米軍基地内
の礼拝堂で行われる「聖餐式」の司式をしに、日本聖公会の
司祭が派遣されていたそうだな。ただし、現在もこれが行わ
れているかどうかは不明だが、少なくともこの隊士がこの情
報を耳にしたのは、当然のこととして戦後間もない頃のこと
ではないし、1970年以降のことだ。
「軍事基地がある限り、市民の日常生活は直接間接的に脅
かされ」ていると言っているのであれば、米軍基地内での聖
餐式では、何を説教していたのか。拙者にそれを教えてくれ
た隊士は、その司祭の名前も、その司祭が基地の将校達とど
のような関係にあったかということを知っている。日本聖公
会は駐日米軍そのものを問題にしているようだが、しかし、
裏では米軍に協力していることにならないのか?。
日本聖公会は何を考えているのだ。
日本聖公会は主体性という言葉を知っているか。「軍事基
地がある限り、市民の日常生活は直接間接的に脅かされ」て
いると主張するのであれば、いわゆる「日米安全保障条約」
が自動延長されて以降も、米軍に協力していた教区があった
という事実をどう考えるのか。この事実と「軍事基地がある
限り、市民の日常生活は直接間接的に脅かされ」ているとい
うことは矛盾しないと考えているのか。彼らはやはり、自分
の目の中にある梁に気が付いていないようだ。
いまの聖公会に正義が語れるか。平和や教育の問題を口に
出来るか、日本聖公会自身が自らを省みる必要がある。長年
幼稚園の理事長と園長を兼務してた司祭が、こともあろうに、
女子児童に対する性的虐待を少なくとも6年間にわたって、
それも少なくとも6人の児童に対して行っていたことが裁判
で明らかになったにもかかわらず、日本聖公会京都教区はこ
の司祭を懲戒免職にすることなく、依願退職にさせ、しかも
幼稚園から多額の退職金を支払っていた。この金額は、確定
した高裁判決の慰謝料と想定される裁判費用の合計金額にほ
ぼ一致するという。
それだけではない。この性的虐待行為が行われていた教会
に赴任し、被害者を庇護した司祭を三浦・古賀・文屋という
三人の司祭は、研修会に向かう車の中で責め立て、研修会場
へ向かう途中の和歌山駅で車から降ろさせ、加害者である司
祭に謝りに行けと言ってその司祭を車から降ろしてしまった。
そしてそれだけではない。高地主教はその司祭を京都教区か
ら追放してしまった。事実を知っている司祭が京都教区にい
ては都合が悪かったからかもしれない。そして、こうした事
態に対して京都教区だけでなく、他教区の司祭達も主教達も
一切沈黙している。それだけではない。彼らは自分たちが所
属している日本聖公会という教会の中で、12歳以下の女児
に性的虐待行為が行われ、その被害者に対する迫害がいまだ
に行われているにもかかわらず、「正義」「平和」「女性の
人権」を口にしている。
昨日、拙者の耳に入ってきたことがある。鞍馬天狗のこと
だ。彼奴もかつて日本聖公会のある司祭から「イジメ」を受
け、日本聖公会を出たのだが、その天狗がブログに日本聖公
会を批判している文書を載せているが、彼がそうしているの
は金銭目的のためだと、日本聖公会の中で言い触らしている
奴がいるらしい。天狗に昨夜、電話で確かめたが、彼奴は、
「そうした意図はまったく持っていないし、そんなことをす
る暇はない」と言っていた。日本聖公会によくある事実を捏
造した誹謗中傷が出回っているようだ。彼奴がいた教区では、
他にも司祭が追放されている。その詳しい裏話は、拙者の耳
にも入ってきている。この時にも、金銭のことが裏で蠢いて
いたそうだ。天狗はその司祭に会ったことがあるらしい。
沖田のブログに『キリスト新聞』の記事が載っていたが、
あのすぐ上に載っている、とある講演会の講師は日本聖公会
の司祭だそうだな。『キリスト教年鑑』にそれが出ている。
あの教授は、京都教区の問題をどう考えているのだ。正に、
日本聖公会の司祭であり、関連幼稚園の園長が6年間にわた
り性的虐待行為をしていたのだ。そして、日本聖公会の教会
の中に、あの事件は「被害者の妄想による虚言だ」というこ
とがまことしやかに、信徒の間に広まっている現実をどう考
えているのか。そして、前述の三人の司祭のうち、古賀は、
被害者の父親と一緒に京都教区を追い出された司祭の所まで
謝罪に行ったそうだが、その事実を確認しているのか。天狗
はあの教授のことはよく知らないと行っていたが、拙者はまっ
たく別のところであの司祭を見かけたことがある。日本聖公
会の司祭達は何が恐ろしくて、沈黙しているのか。自分たち
が司祭であるということの意味を、どう考えているのか。
日本聖公会京都教区の常置委員長は未だに原田文雄司祭や
武藤主教あるいは高地主教うぃ擁護するような発言を繰り返
しているようだな。確かお主は、あの最高裁判所の上告却下
が下された時に、「冤罪」とか「高裁や最高裁に抗議する」
という文書を総務局長として発表しているよな。何故主教声
明でなかったのか、常置委員会はどう判断を下していたのか
は判らんが、加害者である原田文雄司祭の「事実無根」とい
う言葉だけを信じていただろう。
新撰組の情報網は京都教区に限らず、日本聖公会の多くの
教会は、京都教区から送られてくるは文書だけによって事を
考えようとしているようだが、これ以上愚かなことをするで
ない。お主も拙者より歳が下だからあえて言わせていただく。
京都教区の負けは誰の目にも間違いないこととして見えてい
る。お主らは、原田文雄司祭に対する訴えが冤罪出ないこと
を認めているにも拘わらず、自分たちの過ちを認めようとし
ていない。
見苦しいぞ。最早悪あがきをしているような情況ではない
だろう。お主らは、六人の被害者のうち、三人目以降の方々
に対しては原田文雄司祭に謝罪文を認めさせたであろうが。
何をいまさら血迷っているのだ。いい加減で、自分たちの過
ちを認め、教会と社会に対して心から誠実な謝罪をしないの
だ。お主らの過ちは、京都教区の内部問題ではない。「準強
制わいせつ」という極めて悪質な犯罪を犯した者を擁護して
しまっていたという、最悪の過ちなのだ。
日本聖公会とて、日本の団体なのだ。そして、あの事件は
日本の中で起こったことなのだ。日本の法律で考えなければ
ならないことは当然のことなのだ。お主らの中にはそうした
意識があまりにもなさ過ぎた。時が過ぎれば、被害者を含め
て、皆の者が忘れるとでも思ったのか。目を覚ませ、そして
悔い改めよ。お主らのしていることは、聖書から見ても、大
きな過ちであることは間違いない。
拙者の留守中に投げ文があったようだな。誰が投げ文した
かおおよその見当は付いているが、その者が京都教区から虐
待されなければいいがと思っている。奴等は前科があるから
な。被害者を庇った司祭を京都教区から追い出している。
それに関して、京都教区はまったく自戒していない。日本
聖公会では、司祭も神なのか。先輩の司祭は後輩に対して絶
大な権力を持っているのか。沖田が言うように、日本聖公会
京都教区は確かにカルトだ。
それにしても、管区は何故黙っているのだ。京都教区の対
応はあまりにお粗末だろう。管区の権威でさえ、法の前では
一般庶民と変わりないのだ。管区は日本の政府を超えている
とでも思っているのか。
日本聖公会全体が、傍観者でいることは許されないことだ
ろう。あれだけ女性の人権と言うことを言っておきながら、
この様は何だ。主教をはじめ常置委員会の司祭達は当分の間、
謹慎させるか他藩に預けるか、その二つに一つだろう。