『キリスト新聞』なるものに、「軍事基地がある限り、市
民の日常生活は直接間接的に脅かされ」と日本聖公会の聖職
者を含んだ日本聖公会の内部団体が表明していると書かれて
いる。これは沖縄の少女暴行事件に関して、同新聞の3月8
日号に記されているのだが、日本聖公会には主体性というも
のがあるのか。
地方出身の隊士が話してくれたが、日本にある米軍基地内
の礼拝堂で行われる「聖餐式」の司式をしに、日本聖公会の
司祭が派遣されていたそうだな。ただし、現在もこれが行わ
れているかどうかは不明だが、少なくともこの隊士がこの情
報を耳にしたのは、当然のこととして戦後間もない頃のこと
ではないし、1970年以降のことだ。
「軍事基地がある限り、市民の日常生活は直接間接的に脅
かされ」ていると言っているのであれば、米軍基地内での聖
餐式では、何を説教していたのか。拙者にそれを教えてくれ
た隊士は、その司祭の名前も、その司祭が基地の将校達とど
のような関係にあったかということを知っている。日本聖公
会は駐日米軍そのものを問題にしているようだが、しかし、
裏では米軍に協力していることにならないのか?。
日本聖公会は何を考えているのだ。
日本聖公会は主体性という言葉を知っているか。「軍事基
地がある限り、市民の日常生活は直接間接的に脅かされ」て
いると主張するのであれば、いわゆる「日米安全保障条約」
が自動延長されて以降も、米軍に協力していた教区があった
という事実をどう考えるのか。この事実と「軍事基地がある
限り、市民の日常生活は直接間接的に脅かされ」ているとい
うことは矛盾しないと考えているのか。彼らはやはり、自分
の目の中にある梁に気が付いていないようだ。