今日、あるところで、ある方から、かつて日本聖公会に、
「イエスは結婚していた」と聖書研究会で公言した司祭が
いたと言うことを聞いた。そして、その司祭は教会の信徒
から大きなブーイングを受けて、他教区へ移籍したそうだ
が、日本聖公会としてその司祭に対する懲戒はまったく為
されていないという。
日本聖公会という教会は、本当にキリスト教なのか。彼
らは、聖公会の「綱憲」を持っているが、その第1に、旧
約および新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る
要道を悉く載せたるものと信ずる」」と記されているが、
彼らには、聖書以外の正典=カノンが存在するのだろうか。
あるいは彼らが聖書と同じくらいに堅く保持し続けてきた
「祈祷書」に、「イエスは結婚していた」と記されている
のだろうか。
しかし、彼らは、聖書を「神の啓示にして救を得る要道
を悉く載せたるものと信」じているのだから、聖書以外か
ら、教理を導き出さないのではないのか。彼らはかつて、
ローマ・カトリック教会と接近し始めた。それでいながら、
女性司祭按手(アメリカなどで主教按手も)を行ってきた
が、聖書からだけしか教理を導き出さなかったのではない
のか。司祭と訳されている「ブレスブテロス」も、主教と
訳されている「エピスコポス」も男性形しかない。聖書の
みと言いながら、彼らはこうした矛盾をどうやって解決出
来るのだろう。
それにしても「イエスは結婚していた」と聖書研究会で
発言した司祭を教会法廷で裁くこともしなかった日本聖公
会の一教区である京都教区が、あの管区の小審判廷が命じ
た差し戻し審を教会法に照らして行うことが出来るのだろ
うか。もはや、最高権威者である主教会が、それこそ「超
法規的判断」によって京都教区の差し戻し審を行う以外に
道はないだろう。管区の小審判邸に覆された京都教区審判
廷の決定は、そして、管区の小審判廷の判断において、こ
とごとく否定されている。最早、日本聖公会京都教区は、
現在の主教が自らその職を辞し、司祭職だけをまっとう出
来るようにしたあと、主教会が主教の働きを為すという、
主教会自身の超法規的判断によって差し戻し審を開廷すべ
きであろう。日本聖公会に残された道はそれしかないと思
われる。「イエスは結婚していた」と聖書研究会で発言し
た司祭を裁けなかったように、日本聖公会の管区は、当時
は現職の司祭だった人物による性的虐待を裁くことが出来
ないのだろうか。そうした意味では、いまこそ正に、日本
聖公会の聖職者はその神学を問われている。