<謹言>というブログに、「審判廷の結論は既に見えて
いるということが記されていた」というメールが来たそう
だが、その出所や人物確認は出来ているのだろうか。もし
その確認がとれているのであれば、その情報に関する裏付
けもとれると思われるが、如何だろうか。しかもその結論
は、加害司祭を復職させる道を可能にするということらし
いが、時効は停止したままではないのか。日本聖公会法規
第210条には、「懲戒を求める申立は、第198条から
第200条までに規定する行為または一定の行為をしない
ことが終わった時から3年を経過した後は、することがで
きない。」とされているが、日本聖公会京都教区が加害司
祭の性的虐待行為は事実であったと認めているにも関わら
ず、加害司祭はそれを認めていないのだから、「第198
条から第200条までに規定する行為または一定の行為を
しないことが終わった時」はまだ来ていないと判断される
べきだろう。
3月3日に審判廷を開廷し、冒頭陳述をさせ、それに対
する反証をさせた段階で、法規第210条の規定によって
公訴時効が成立していると審判廷が判断するとしたら、極
めて悪質な、作為的審判廷でしかないことを教会の内外に
宣言するようなものだ。それだけはない。現在では、性的
虐待に関する時効の起算日をPTSDが発症した日とすべ
きだという見解さえ出てきている。そして、あの性的虐待
事案は、公訴時効が成立してしまっていたために、民事裁
判という方法を採らざるを得なかった事情もあるのだから、
審判廷という教会法廷が、被害者とその家族にに有利な道
を選び取るべきではないのか。それとも、日本聖公会管区
小審判廷は、民事と刑事の相互不介入の原則から、確定し
たあの高等裁判所の判決は、あくまでも民事裁判であり、
審判廷申立の内容は刑事訴訟と認識し、既に時効が成立し
ていると考えるというのだろうか。
そして、公訴時効が成立していれば、被害者との間に和
解が成立していなくとも、法規第210条の規定によって
時効が成立し、その結果、京都教区主教による陪餐停止命
令も解除されるということを考えているのだろうか。しか
し、あの審判廷の審判員には、NCCの議長も含まれてい
るのだから、そうした被害者の人権をまったくと言ってい
いほど無視した審判を下すことは、拙者には考えづらい。
日本聖公会京都教区は、教区主教は閲覧していないが、当
時、常置委員だった司祭が2名、あの慰謝料請求裁判の裁
判記録を閲覧している。当然、あの高等裁判所の判決も読
んでいると思われるのだが、あそこに保存されている「被
害手記」を、日本聖公会小審判廷の審判員はどう考えるの
かが、審判員に問われてしまうだろう。あの性的虐待事案
は、刑法上の「姦淫」こそ行われていないものの、ありと
あらゆるわいせつ行為が女児に対して為されていた事案で
あることは、あの裁判記録を読んだ者はすべて知っている
であろうことは容易に推察できる。
日本聖公会の管区小審判廷は、法憲法規に基づいて公正
な審判をするであろうと信じていたい。『アエラ』という
雑誌にこの事案に関して掲載されてから、多くのマスコミ
が関心を持っていることは間違いない。それだけではなく、
日本聖公会の関連団体もこの管区小審判廷に注目している
ことと思われる。何しろ、かなりの人々があの性的虐待事
案をテレビや新聞で見たり読んだりしただろうから、間違
いなく関心を持っている。そして、否が応でも「日本聖公
会」という固有名詞を記憶しているだろう。主教会はそれ
を知らないはずがない。3月3日の管区小審判廷がどのよ
うな形で行われ、その後どのような推移を経て、どのよう
な審判が下されるか、衆目の的になっていることは間違い
あるまい。