忍者ブログ
新撰組局長 近藤勇 の世直し
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
近藤 勇
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 

 日本聖公会京都教区は審判廷を開けるのか。聞くところ

によると、日本聖公会で懲戒申し立てが行われたのはこれ

が初めてだそうだ。どの教派の教会でも同じかもしれない。

ある合同教会では、教派の規則を逸脱して、強引にある牧

師に退職勧告をしたらしい。理由は、「未受洗者の陪餐」

だそうだ。その合同教会には、何人かの知り合いがいるか

ら電話してみたが、多くの人は無関心だった。拙者が受け

た印象では、下手な発言をして問題にされるのが嫌だとい

うことが理由のようだ。


 一般に、ローマ・カトリック教会から離れた教会(「プ

ロテスタント教会」と言うことが多い)には、「聖書のみ」

という大黒柱がある。つまり、聖書からしか教会の教理を

導き出さないということなのだが、聖書には未受洗者の陪

餐を禁止していると考えられる個所はない。また、少し横

道に逸れるが、<バプティゾー>というギリシア語は水に

浸すことを意味する言葉だから、頭に水をかけるだけの洗

礼は無効だと考えられていた時代があった。しかし、西岸

海洋性気候の西ヨーロッパでは、それなりのきれいな水を

確保することは可能であるし、あるいはきれいな水が流れ

る川や湖があるが、地中海性気候の地域では、乾季と雨季

もあり、水の確保が難しかったので、「滴礼」をせざるを

得なかったことから、「滴礼」が広まったと考えられる。

ローマ・カトリック教会にしても、「浸礼」という全身を

水に浸す洗礼方法を否定しているわけではない。だから、

「聖書のみ」ということを教条主義的に押し進めると、聖

書のそれぞれの部分が書かれた時代以降の教会の歩みを無

視してしまうことになる。


 日本聖公会は、他国の聖公会と一緒に「綱憲」を保持し

続けてきたようだが、あそこにも「聖書のみ」がはっきり

と記されている。ところが、最近の日本聖公会の中での礼

拝に関する議論の中で、古代教会の礼拝に関する文書によっ

て礼拝式文(祈祷書)を改訂してしまったかのように見え

ることがある。あるいは、聖書の記述からすれば、<プレ

スブテロス>の女性形はないにもか変わらず、女性司祭按

手を認めてしまい、法憲法規を改訂してしまったように見

える。主教会であっても、各国の聖公会では「綱憲」に抵

触することを定められないはずなのだが、前述の二項目に

関しては、拙者の目から見ると明らかに「聖書のみ」を逸

脱しているとしか言いようがない。


 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れ

る者は、わたしを受け入れるのである。」「しかし、わた

しを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、

大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がま

しである。」というマタイ福音書にある主の御言葉が、あ

の被害者代理人の公式ホームページに記されているが、日

本聖公会はあの御言葉をどう理解しているのだろう。最早、

日本聖公会は「聖書のみ」を大きく逸脱してしまっている

のだろうか。ある教区では「性的少数者のための聖餐式」

をしているそうだが、同性愛者であることを公言している

人々の陪餐に関して、日本聖公会はどう考えているのだろ

うか。聖書には「ふさわしくないままで主のパンを食べた

り、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を

犯すことになります。」(1コリント書11章27節)と

記されているが、聖書は同性愛を認めているだろうか。こ

の個所の「主の体と血」は、明らかに聖餐式のパンと葡萄

酒を意味している。日本聖公会は、既に他国の聖公会と共

有している「綱憲」をも否定してしまっていないだろうか。

そうした日本聖公会の一教区が、女児に対する性的虐待行

為をし続けていた司祭を裁けないのは、ある意味で当然な

のかもしれない。

PR
Copyright © 天 誅 All Rights Reserved
Powered by ニンジャブログ  Designed by ピンキー・ローン・ピッグ
忍者ブログ / [PR]