日本聖公会京都教区は審判廷を開けるのか。聞くところ
によると、日本聖公会で懲戒申し立てが行われたのはこれ
が初めてだそうだ。どの教派の教会でも同じかもしれない。
ある合同教会では、教派の規則を逸脱して、強引にある牧
師に退職勧告をしたらしい。理由は、「未受洗者の陪餐」
だそうだ。その合同教会には、何人かの知り合いがいるか
ら電話してみたが、多くの人は無関心だった。拙者が受け
た印象では、下手な発言をして問題にされるのが嫌だとい
うことが理由のようだ。
一般に、ローマ・カトリック教会から離れた教会(「プ
ロテスタント教会」と言うことが多い)には、「聖書のみ」
という大黒柱がある。つまり、聖書からしか教会の教理を
導き出さないということなのだが、聖書には未受洗者の陪
餐を禁止していると考えられる個所はない。また、少し横
道に逸れるが、<バプティゾー>というギリシア語は水に
浸すことを意味する言葉だから、頭に水をかけるだけの洗
礼は無効だと考えられていた時代があった。しかし、西岸
海洋性気候の西ヨーロッパでは、それなりのきれいな水を
確保することは可能であるし、あるいはきれいな水が流れ
る川や湖があるが、地中海性気候の地域では、乾季と雨季
もあり、水の確保が難しかったので、「滴礼」をせざるを
得なかったことから、「滴礼」が広まったと考えられる。
ローマ・カトリック教会にしても、「浸礼」という全身を
水に浸す洗礼方法を否定しているわけではない。だから、
「聖書のみ」ということを教条主義的に押し進めると、聖
書のそれぞれの部分が書かれた時代以降の教会の歩みを無
視してしまうことになる。
日本聖公会は、他国の聖公会と一緒に「綱憲」を保持し
続けてきたようだが、あそこにも「聖書のみ」がはっきり
と記されている。ところが、最近の日本聖公会の中での礼
拝に関する議論の中で、古代教会の礼拝に関する文書によっ
て礼拝式文(祈祷書)を改訂してしまったかのように見え
ることがある。あるいは、聖書の記述からすれば、<プレ
スブテロス>の女性形はないにもか変わらず、女性司祭按
手を認めてしまい、法憲法規を改訂してしまったように見
える。主教会であっても、各国の聖公会では「綱憲」に抵
触することを定められないはずなのだが、前述の二項目に
関しては、拙者の目から見ると明らかに「聖書のみ」を逸
脱しているとしか言いようがない。
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れ
る者は、わたしを受け入れるのである。」「しかし、わた
しを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がま
しである。」というマタイ福音書にある主の御言葉が、あ
の被害者代理人の公式ホームページに記されているが、日
本聖公会はあの御言葉をどう理解しているのだろう。最早、
日本聖公会は「聖書のみ」を大きく逸脱してしまっている
のだろうか。ある教区では「性的少数者のための聖餐式」
をしているそうだが、同性愛者であることを公言している
人々の陪餐に関して、日本聖公会はどう考えているのだろ
うか。聖書には「ふさわしくないままで主のパンを食べた
り、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を
犯すことになります。」(1コリント書11章27節)と
記されているが、聖書は同性愛を認めているだろうか。こ
の個所の「主の体と血」は、明らかに聖餐式のパンと葡萄
酒を意味している。日本聖公会は、既に他国の聖公会と共
有している「綱憲」をも否定してしまっていないだろうか。
そうした日本聖公会の一教区が、女児に対する性的虐待行
為をし続けていた司祭を裁けないのは、ある意味で当然な
のかもしれない。